昭和40年12月14日 朝の御理解
一生懸命の信心の稽古をお互いさせて頂いておるけれど、その一生懸命の信心の稽古にも関わらず、その実績が上がらない。そう言う様な、思いをなさる方はないだろうか。ね。確かにもう椛目で10年、または15年みっちり信心の稽古をさせて頂いておる。成程、日々のおかげは頂いておる。しかも神様の働きと思わなければおられんほどの、万事お繰り合わせの中に、おかげを頂いておる。
けれどもそのおかげが、ね、こうこうの育てない、おかげが大きくならない、と言った様な事を感じられる方はないでしょうか。一年一年そのおかげの内容も、信心が育って行くと同時におかげの内容も大きくなっていっておると言う様な事になって来なければならんけれども、もうちっと位見生えのするというか、もうちっと位実績があがらなければ嘘なんだけれども、その実績がそれが不便にも感じられないと。
私今朝、ご神前に出らせて頂いたら御心眼に、これは小さな丸いおぼんなんです、お茶を持って来る時に使います、小さいおぼんがありますでしょう。お粥なんかするとき。あのおぼんがセットになっている様です、中にこう入る様になっている。大きなおぼんから、おぼんが幾つもこう入っている。これはその丸いものをおぼんの様だと言うから、まあ、丸い心だと私こう思う。いわゆる和賀心であろうとこう思う。
その和賀心をだんだんこう育っていってです、ね、大きないわばおぼんという事は同時に受け物という事でもあろうとこう思うた。ね。確かにそこから表を綺麗にはわいたはずだったけれども、またこげんちらかっとるち。散らかっとるはずだ。はわいたのははわいたばってん、ゴミをちり箱の中に入れとらん。そう言う様な例えば信心ではなかろうかと。昨日13日会で秋永先生が話しておりましたが、ね、
どうも信心がどうどうまわりになる。ね。おかげを受けておるのだけれども、そのおかげが育っていない。ここに本気でお互いがそこん所に、これはどこにその原因があるのかということを突き止めて、ね、後もう二十日余りだから、本気でそこに取り組んでみようじゃないですかと、皆さんに話し掛けておりましたようにですね。おかげを受けておる、けれども、そのうだつがあがらん、実績があがらん。
成程是では、おかげは受けられない筈だと言う様なものを銘々、長年の信心の間にそれを感じておる。感じておりながらそのまま、おかげを頂こうとするずるさがある。誤魔化してすむものなら、誤魔化していこうという。それではやはり本当のおかげは頂かれない。昨夜の御祈念に、どうぞその久富繁雄さん所の奥さんと、それから息子の国男さんと、娘さんとお父さんが親戚に不幸がありました為にお参りが出来なかった。
そして夕べ親子三人で参って来て、そしてそれでその、国男さんがお届けをしてある事なんですね。私は本当に有り難いなあと思うた。私この頃ご本部で頂いた、お知らせを、殆ど同じ様な御教えを頂いておるのですね。その竹やぶをですね開いておるち。私が頂いたのも、その竹やぶをこう開いておる。ね。折角開いたから種をまこうと思うのだけれどもですね、生え出した所が又、こちらの竹やぶの方から。
竹の芽が出て来てから、またその折角開いた所が、また竹の芽がこう出て来よるち。と言う様なですねお知らせだった。後は見てないけれども、昨日国男さんが昨日の朝頂いておるのもやはりそういうもの。竹やぶを開いてそこにその山芋を植えよる。「先生山芋を植えよるその種がですね、丁度その人間の形をした、その種を昔あの偉い人が死にますとです、その一緒に生き埋めて、生き埋めじゃない。
何て言うですかね、そのそのお供をしていくわけなんですね。そういうその、慣わしがあった時代がある。それが段々生きた人間をというわけにはいけんから、もう埴輪のなかにほっとりますね、人形を作ってそのお供をさせると言った様なもの。ね。丁度そういう様なその人形の形をした山芋を植えておる。ところがその、山芋がこうもうこれ、その物を言い出したち。
人が通るとその山芋がですね、何とも言えんその気持ちの悪いそのお夢であった」とこういうわけですね。それで私が、ほう私が頂いたお夢とよう似とるのと。あんたげも竹やぶを開いてから山芋を植えておる。そしてそこんにきはあんたが頂いたように違うけれども、先生が頂いたのは竹やぶを開いて、そしてそこに物を植えておるのだけれども、そこにこう溝がきっていない。
必ずあの、屋根の周囲にはこうあの、掘割がありますね。それがやっていないもんだから、ここへまた折角のいわば、畑に開墾して物が出来よるという時になったら、また竹の根が走ってきて、それを邪魔をする。ほうらね、例えばあんたん所のお父さんが、これは家に帰ってからは知らんよ。けれどそのまあ、椛目にだけは本当に、もう自分というものをむなしくしてある、してきってある。ね。
例えばあの、ご本部参拝をします道中なんかでも、もう決して寝られない。長くなる。それを私がそう、無理を言われるからようやく寝られるけれども、それでもいつ先生がたたれるか分からんからいつでもその、自分が目を覚ましておかにゃ、と言う様な言わば心掛けなんです。これはいわば自分を空しゅうしなければ出来る事ではない。確かにそのそういう、人型を植えておるようなもの、そういう様なです、信心がですね、物を言わん筈がないという事。私はそう思うたです。
なるほどなあ、あっち一家中修行されて信心さしよったもん。15年間の修行が信心が、いうなら物を言うてきよるとじゃなあと言う風に申しますでしょうが。いわゆる日頃の信心が物をいうのです。山芋といえば修行と仰る。ね、そういう例えば尊い信心を修行をさせて頂きながらです、いわばその信心が物を言う様な、おかげが頂かねなければならんのに、おかげが頂けんのは、国男さんこれは私がいただいとる所のお夢をあんたが一つ頂かんならんのじゃなかろうかね。
折角お父さんの信心で是だけのおかげを頂きよる、そのれが物を言わなければならん筈なんだ、本当いうと。それを信心が愈々の時物をいわんというのは、おかげが実績があがってこないというのはです、ね、家族の者の信心がそこで雑草的なものになって、それを、葬る、それを無駄にしていくっておる様な事はなかろうか。ね。一つ掘割をつくらにゃいかん。家族を上げてそうしなければ、その努力が必要だ。ね。
お父さんのあの信心が無駄になる筈が無い。あの修行が神様が受けなさらんはずがない。それを例えば家族の者が不信心、不信心というわけではないですね、一家をあげ揃えていわば、信心をしておるますから。ね。けれどもその時々いわば、間違うた事になってくる。それは若い者ですから仕方が無いですけれども、仕方がないで済まされん。これだけの尊い信心をさせてもらいよって、それが、ね、
蒔いた物が芽生え、そしてそれが花になり、実りになるというところまで、頂かなければでけん。これは私のことだけれども、ね、私は一生懸命にならせて頂いたら家族中のものが一生懸命になった。前を引くものもあれば、後ろから押すものもある。だから私は信心が修行が非常にしよかった。あんたん所はそこんところを頂かねばならんのではなかろうかと言うて話した事でした。
お互いの信心というものが、確かに信心させて頂いておるのであり、稽古をさせて頂いておるのであり、しかも、自分なりに一生懸命なのだけれども、その、一生懸命の信心が10年、または15年または5年という風に続いて来たけれど、その実績というものがそう、(?)のあるものではない。それは感じるものは感じる。あれもおかげじゃろうと思う。これもやはり、おかげと分かる様に段々なって来るけれどもです。
大した変わり映えがない、または実績がないというならです、ここに一つ本気で考えなければならない。我、神とともにあり、と言った様な事ね、同行二人と言った様な事も申します。神仏であってはならない、もう四六時中がです、我神と共にあるという信心。いわゆる何事にも信心になれよと仰るそれなんです。夕べのご理解でした。ね。神様のほうが確かに平身低頭しておる。
ところが、こちらの例えば、人間関係の場合でも人間の方には、平身低頭していない。ね。神の氏子としての扱い方をしていない。いや自分自身というものを掘り下げていないから、自分を一番下におく事が出来ない。自分がよかとのごつ思うておる。と言うて昨日私、北野の福島さんの例をとって話したことでした。ね。もうそれこそ、しかたもない奴どんにはものどん言わん、ちゅうごつある自分であったと。
椛目の金光様を参よるよか、俺ば拝めといったごたる風な時代の自分がです、もう本当に今から考えてみると、大変なことであったという事。信心をさせて頂くよううなって、まる四年。そこんところに取り組んだ。けれどもいっこうにいけん。ね、町会議員をやめられて、お店だけではどうのもいかん、いよいよふにょういになっていく。そこでその、なにかどこに勤めたい、なにか仕事を始めたいと言うて、お届けすりゃあそれはいかんこれはいかんというて先生が仰る。
本当に神様はどげん思うちょるじゃろうかとと思いよった。ところがたまたま、ある人がもう○○と言う生命保険の外行をせんかと言うてそのいうてもらってから、よもや生命保険の外行員てなんてお許しいただくとは思わんけれども、まあ、お届けしようと思うて、お届けしたら、はあーそれがよかばいと言うてから、先生仰った。まあ、ある意味がっかりしておられる。
保険、そしてその保険の外行をさせて頂いてから感じましたこと。自分でもあまりにも頭が高かったという事。ね。昨日も言うておられました。ね、たった6万5千円の生命保険、しかも、月千円づつ掛け金のもう一番小さいその保険金をもらうのにです、3回とか4回とかそれこそ、頭を地につけるようにして頼みに行ったち。もう本当に、始めて分からせて頂いた事は。
成程、保険のその事でおかげを頂く頂かないではなくてです、先生があぁそれがよかばいと仰ったのはです、私にこの頭を下げさせるという事をですね、教えて下さったのだというて昨日笑っておりした。神様がお許しくださったのは、ね、さあ四年間信心の修行をさせて頂いた、その信心をいよいよ物言わせて、どういうわけ、自分が実意丁寧に人を大事に、ね。物を丁重にするものが出来ておるかということ。
神様だけは成程、さかたんぼをうって拝みよる。けれどもこちら、人間の方にはです、いわゆる神様の氏子としての取り扱い、いや自分自身の、もうぎりぎり最低な、私というところを、見極めておるから、やっぱ頭が高いのである。これは人だけのことではない、物も「木の切り株に腰をおろしても、立つときには礼を言う様な心持ち」と言う様なものが育っていない。ね。
忠ならんと欲すれば、孝ならず、孝ならんと欲すれば忠ならず、と。これは平重盛が嘆いた言葉なんですね。お道の信心とはそんなもんじゃないて。はあ先生はあー仰るけれども、ね、先生はあー仰るけれども、それが本当のことじゅろうばってん、実際実生活の中に入ったら、そげなことしよったら、人に馬鹿にされる。ね。いわゆる、二本立てでいきよる。神様のほうへと人間の日常生活のは、いわば反対の生活をしておる。
これでは、いわゆる、信心の実績はあがるはずがないという事。ね。本気で忠になろうとこちらがするならばです、それがそのまま、孝にならんはずがない。信心と生活がその一緒に、ね、両立する事はない。そういうような事がです、例えば実績を生むことが出来ない事になる。神様の前にも平身低頭ならこちらの生活態度も、やはり実意丁寧をむねとしての生活が出来なければならない。
いうなら信心をです、なんていうですか、あの西遊記の孫悟空が持っておる、ニョイボウというのがありますね。伸ばせば何乗にも伸びる。縮めれば自分の耳の中にでも隠せるといういうならばいうならば棒なのである。私共が信心をです、神様は携帯品というちゃあおかしいけれどもです、いつも携帯できておるところの信心、そしていよいよの時は伸ばす事が出きれる信心。
そういう信心をさせて頂いてです、百円入るときには、百円のお繰り合わせが頂け、千円が入るときには、千円のお繰り合わせが頂け、一万円が入るときには、一万円のお繰り合わせが、即座に頂けれるような、おかげというものが、頂けて来るようなおかげを頂かねばいかんと言う事。そういういわば、伸び縮みのある、いわゆる、神様といったらおかしいですけれどもね。
例えば孫悟空のにょい棒のような携帯品と行ったらちょっと、おかしいけれどもですね、只今お互いが(?)ならない、邪魔になる物じゃない。信心というのは。ね。 いわゆる、いつも、同行二人じゃなからなければいかん。神様の前だけは神様を頂いておるけれども、1歩外に出たら神様を外しておると言う様な事では、いつまでたっても実績のあがるような信心にはならないち。ね。
人が10銭で売るものは8銭で売れと仰るのに、11銭で売ることがおかげのように思うておる。私自身がそげんであった。もう、成程、おかげを受けたけれどもです、それでは、そこに本当の実績にはなってこなかったという事。ここんところをお互いが本気で一つ分からせて頂いて、本当の意味合いにおいての道の行者になりきらなければだめ。しかも、国男さんが頂いておるようにですね。
おやじが一生懸命信心させて頂いておるのをです、子供が遣いちらかすような事をしたんではです。それこそお父さんは自分の身、心を犠牲にしてから、神様の前に奉仕のおかげを頂いておるのだけれども、家族のものがそれをしだこだにしてしもうてから、本当を言うたら、あの信心が物をいわんはずがないのに、現在物を言うていないということは、どういうわけかということを、悟れという事をです。
例えば昨日13日会に皆さんが、共励されたところの焦点をです、国男さんは昨日の朝頂いておったという事になるわけです。ね。これは例えばんなら教会子弟という事でも同じ事です。先生の信心は素晴らしい。ところが奥さんが子供達がです、ね、その信心を邪魔するようなことをする。そこに先生の信心がものを言わんはずがないのに、ごひれいが立たんはずはないのに。
ごひれいが立たんと言うのは、そういう事ではなかろうかと、私は一変思うて見なければないけないという事。これは家族においても同じ事。ね、そこで私が一番始め今日頂きましたようにです、確かにはわきよるとは、はわきよるけれども、またちらかっておる。ちらかっておりますというけれども、肝心要の最後の締めくくりをしておらん。はわいたものを捨てておらん、このぐらいな盆でよいときにはこれで、大きなおぼんでなからなか時には、大きなお盆をです、ね。
いわゆる、セットになってきちっと邪魔にならんように、中にすとっと入ってしまうような、受け物のおぼんというものを、いわばニョイボウ的な受けものをです、そういう信心をです、していない証拠だということ。神様をどこにでも一緒にお供をしていないと言うこと。いつも同行二人の信心ができていないいと言うこと。ここでは、同行二人でももう、帰りには一人で帰りよると言う事。ね。
成程これでは、10年、20年たたっちゃ、大したことはなかろうということを一つ、早く分からせて頂いて、ね、おかげを頂いていかなければ、相済まん。神様に対しても相済まん。今度、御本部参拝させて頂く道中で繁雄さんと話したことでした。「いつものことだけれども、先生ほんとに恐れ入ってしまいますなあ」と言うて、もう、私汽車にのったら、すぐ、繁雄さんお茶を入れられるんです。
玉露の入れられるようにあの持って、その行かれるわけなんです。親先生に差し上げた。「けれど本当羊羹の一切れ、いるごたるですね」ち。したら列車は向こうの方から、その、誰かがやって来よるち。先生その人はいつも、そげなものを持って来る用ないです。又ほかんもんを持ってくる。切り羊羹を一袋持って来ておる。はあ繁雄さんと二人顔を見合わせてから、「はあ」と私言うたことでした。
もう今度の御本部参拝ではそれが特にそれがはっきりしてました。「はあ私サイダーが飲みたい」。というておると誰かがサイダーを持ってきてくれたり、「ああ水がのみたい」というと、丁度、水道があるところの前に汽車が止まる。もう本当に繁雄さんじゃなかばってん、「もうこげなおかげを本当に、いつも見せて頂くばって、もう慣れっこになってからですね」と言うてから、その、言われる。
しかもそういうおかげがですたい、ね、何を求め、何を願っても同じように頂いていかなければいけないと言う事。ね。私信心が成長していくというということはおかげがそれだけ成長していくのだと、いかなければ。もうおかげでも理屈は同じ事。ね。ですからそこんところをです、私共のいわゆるそのニョイボウ的な信心。いつも神様をその身近に頂いておるところの信心です。ね。
そこから私はセットになったおぼんの用な、的なおかげの受けものと言うものが身についてくるのだと思うのです。だから皆さんの場合は確かに、この位の程度のところのおかげが受けられるところの自信がついてきとるでしょう。ね。けれどもこの位になったらもう受けられないという事ならです、やはりこの位のおぼんの所で一生終わった。成程、神様のおかげと言う事は実感しながらの一生に違いないですけれども。
これでは大したことはないでしょうが。ね。やはりこれが大きく育っていかなければいけない。大きくなっていかなければいけん。ために私共の信心をもう一変本気で振り返らせてもらい、反省させてもろうてです、いわゆる目の詰まった信心。お広前もなからなければ、自分の家庭もない、そういう信心をさせて頂いて、成程本気で神様に喜んで頂くような信心。させて頂きたいと。
神様に喜んで頂こうとおもやあ、人に喜んでもらうことは出来ない。うちのお父さんに喜んでもらおうと思えば、神様に喜んでもらうことは出来ない。と言った様な事ではないと言う事。本気で神様に喜んで頂く信心をさせて頂こうと思うたらです、ね、親にも孝行が出来れる、主人にも喜んでもらえれる、お客さんにも、喜んでもらえれえる所の信心というものが、身についてこなければ。
しかもそれが自由自在に自分の心がです、有り難い有り難いということに仕えれるようなおかげを頂かなければです、ね、ニョイボウ的なおかげにもなってこない。どうぞ皆さんの信心の実績というものがです、ね、おかげの実績というものが、これでよかればそれでよいのですけれども、ね、もっとおかげが頂きたいとこう、願うならばです、ね、その、もっとおかげを頂きたいとこを誤魔化した。
誤魔化していただこうといったような、けちな考えでは、もうそれからは信心は留まっておるのですから、おかげもそのままです。いただけそうにして頂けません。やはり踏ん切りをつけるところはつけさせてもろうて、一段信心を高め大きくしていかなければ、おかげのほうは大きくついては来ないという風に思うですね。どうぞ一つ勿論丸い心でなからなければなりません。
おぼんのような、しかもどこにでも、ちょっとかたずけられる用なですたいね、自分の心の中に入れられるような、ね。いわゆる組立式のというか、セットになったというか、伸び縮みの出来れる信心を、信心という物は決して、その信心したら窮屈と言う事はない。その信心がいつも、頂いておって有り難いという、信心、そういうおかげを頂かなければなりません。
どうぞ。